dracom 祭典 『ソコナイ図』+ 劇団うんこなまず-09『フォアグラ』 関連企画
【うんなま⇔dracom】往復応援メッセージ
2015年のdracom Gala公演『たんじょうかい#3』で、戯曲を提供してくださった劇団うんこなまずの繁澤邦明さんと、お互いにこの年末の近い時期に公演を実施するのだから、応援し合いましょう、ということになりました。dracomのことしか知らない方にうんこなまずを知ってもらうきっかけになればと思いますし、逆もまた然りです。彼の熱いメッセージは私にとって少しばかり照れ臭いものですが、とてもうれしく思っています。公演情報の詳細もリンクを貼ってありますので、そちらもご確認の上、ぜひ、どちらの公演もご鑑賞ください。
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【うんなま→dracom】
「dracomとうんなまは似ている」という感想アンケートをいただいたことがあります。2013年1月、『明日放る』という作品だったのですが、今後の活動自体未定であったうんなまの1年ぶりの公演で、脚本も書けず、鏡だらけのキャパ20弱の空間にて9ステージ行い、うち1ステージは役者が開演時から泥酔している「酒気帯び公演」という振り返るに若気の至りでしかないステージを設けるなど、色々とハチャメチャな公演でした(「成人式公演」なる謎のステージもありました。集客数はお察し下さいの中で、酒気帯び公演が動員断トツtopを誇っていました)。
それから2年半後、件の『たんじょうかい#3』にてうんなま脚本が上演されることになるとはよもや思いもしていなかったのですが、不思議な縁もあるものだということで、次回公演時期がヒジョーに近いということもあり、dracomとうんなまの双方からコメントを書く、ということを恐縮ながらもズケズケとお願いするに至りました。素直に感謝の念ばかりです。
dracomの作品は、昨年10月に『gallery (extra version)』を、そして今年8月に『たんじょうかい#3』を、拝見しました。前者の公演についてヒジョーに印象に残っているのが、「演者と観客の間に存在する、もしくは共有している、あるいは対峙している、緊張感」のようなものでした。(当然ながら鑑賞物としての)美術作品の展示室にて、何というか双方向?のスリル感が存在していたその上演空間自体を、大変居心地よく感じたことを覚えています。もっとシンプルに言うと、「これから何が始まるのだろう」という、それはもう純粋なワクワク、ドキドキ感があったのです(ちなみにその感覚は、後者の公演、拙作にては、「いったい何が起きているのだろうか」「えらいところに来てしまった」という前向きな恐怖に姿を変えていました。しかしながら、やはり類似した感覚なのだろうなとも思います)。
「舞台芸術とは、演劇作品とはなんぞや」ということを語るのはさておきながら、「演者側と観客側のせめぎ合い」というか、いやいやそんな大仰な言葉ではなく単純な、「目の前で起きることを、頭や身体や心といった全身で【共に】満喫する感覚」というかが、やはり表現の、ライブパフォーマンスの、何よりもの魅力なのではないかと思います。ポジティブな、活き活きとした体験として、何よりも「共有する瞬間を楽しむ」ものなのでしょう。そういった意味ではやはり、「コミュニケーション」なのだと思います。この時代に、この世界に、とか言い出すとまた大仰な話にはなりますが。
もちろん、誰しもジャンル等によって好みがある、というのは当然なことなのですが、「いったい何が起きるのだろうか」というライブ感覚を、決してドハデな(突拍子もない、はあるかもしれませんが)何かしらありき[でもなく]能動的に満喫できる、というのはdracomもうんなまも共通している点、なのかなと感じたりしています。演劇とはやはり総合芸術なのだ、と思います。知らない世界はいくらでもあるのだ、とも思います。少なくとも、dracomは僕にとって、演劇それ自体、またはその向き合い方、という2点において、新しい世界でした。
よろしければ、ぜひとも両方観に来ていただいて、その(きっとおそらくは)演劇的な瞬間の節々を共有し、満喫(あるいは比較)していただけると、大変嬉しいし、面白いのではないかなと、思ったり、しております。
劇団うんこなまず
繁澤邦明
<公演情報>
劇団うんこなまず-09『フォアグラ』
2015年12月26日-27日@イロリムラプチホール
詳細→ http://unkonamazu.exblog.jp/24852024/
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【dracom→うんなま】
dracom(ドラカンと読みます)は、1992年に「劇団ドラマティック・カンパニー」という名前で結成された集団です。「1992年」、リーダーである私、筒井にとっては別にどうってことないですけど、今の若い演劇人やお客さんが生まれた頃なのでしょう。私は、当時の男子がみんなそうであったように、若者の衝動を代弁するこの曲をよく聴いていました。( https://www.youtube.com/watch?v=hTWKbfoikeg )
1998年に集団名をdracomに変えたのですが、その理由は稽古場として使っていた市民センター的な場所で、地元の中学生らしき女子らに、「『げきだんどらまてぃっくかんぱにー』やって〜」と馬鹿にされた感じで言われたからです。彼女たちのおかげで、今も繁澤くんのような若い世代の人たちとも仲良くできていると思います。感謝しています。
私がうんこなまずの公演を観に行ったのは、友人が関わっているとか、どうやら良い評判を小耳に挟んだとかのありきたりな理由ではありません。でも、「何となく」でもありませんでした。少し考えてみてください。この劇団名の演劇公演を「何となく」観に行けますか? 本屋にふらりと立ち寄るように観客席に腰を下ろせますか? 絶対に無理です。この世の「何となく」を完全に拒絶しています。つまり私は選ばれし者として劇場にいたわけです。一方、彼らはその劇団名を免罪符として持っているとも言えます。クソつまらなくてもどこかで了解されてしまうかもしれないのです。許されはしないかもしれないけれど、「(観に行った)私が悪ぅござんした」と、その責任の所在を観る側にしてしまう力があります。こんなに素晴らしいことはないじゃないですか。いわゆる自己責任です。逆に言えば、上演が面白かった場合は勇気を持って鑑賞した自分を讃えたくなります。うんこなまずを初めて観たのは、2014年の『tango@bye-bye』ですが、このとき私は自分のことを相当褒めました。自分へのご褒美にこの曲が入っている中古のLPレコードを衝動的に買いました。( https://www.youtube.com/watch?v=7RkVO3_TOO4 )
で、なぜ自分のことを褒めたくなるほど彼らの作品を良いと思ったかというと、演劇の衝動性を失わせないように、極めて丁寧な判断がなされていると感じたからです。一見すると「演劇の衝動性を失わないよう、丁寧に」という言葉には矛盾があるようですが、私はそうは思いません。衝動を表現に含ませるときこそ、かなりきめ細やかな判断を要します。人は必ず何らかの影響下にいます。ゆえに衝動でやったつもりのパフォーマンスも、実は過去の表現の影響で「ねばならない」という思い込みによるものであるケースが多々あるのです。うんこなまずの表現には、それがほとんど見受けられません。しかしそれでいて、奇を衒ったコンセプチュアルな表現をしているわけでもなく、「演劇か、ダンスか、音楽か」というような、クロスオーバーなことにもなっていません。演劇以外の何ものでもありません。これは出来そうで出来ません。本当に難しいと思います。
うんなまはdracomに似ていると言われるみたいですが、誤解して欲しくないので言っておきたいのは、表現の内容が、dracomが先陣でうんなまが後を追いかけてきているわけではないということです。表現者は、年齢やキャリアだけでなく、いつどこにいる人であるかを自ずと問われているのですが、うんこなまずは同じときに同じ場所にいる実感を持てる数少ない表現者だと私は思っていて、もしそこを指して似ていると言われているのであれば、とてもよくわかります。
この年末はお互いの公演が近くにあるので、せっかくだし、どちらも観て、私が言わんとしていることを確認してもらえたら幸いです。
公演芸術集団 dracom
リーダー 筒井 潤
<公演情報>
dracom 祭典 『ソコナイ図』
2015年12月30日〜2016年1月3日、@アートスペース ジューソー/#13
詳細 → http://dracom-pag.org/?page_id=1569
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最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
では、
イロリムラプチホールでは繁澤さんが、
アートスペース ジューソー/#13では筒井が、
みなさんのお越しをお待ちしております!