立川談志と太田省吾との「現代」

(文章中の敬称を略させていただきます。ご了承ください。)

 

 12/4、立川談志の追悼番組として十八番の『芝浜』が放送されていました。それを観ていて、ふと太田省吾の文章を思い出しました。もっと以前から、立川談志の『芝浜』をきっかけに他の落語家の『芝浜』もいくつか観たり聞いたりしていたのに、なぜか初めて両者がつながりました。そしてこのことをTwitterでつぶやいたらリツイートやご意見などの反応がありました。単にそのことがうれしく思ったのと、「直感的につながったけど、無理はないか?」といった自分への疑念もあるので、確認という意味でここで整理したいと思います。

 

まず、番組の終了後にわたしがツイートしたのはこれです。

 

 

 先程、テレビで立川談志師匠の『芝浜』をやっていたので観ました。そこでふと思い出されたのは、太田省吾さんの著書『劇の希望』にある「表現の領域」という文章でした。ここで言われている「現代」と、談志師匠が言うところの「現代」がピタリと当てはまるのです。

 

 

 これは明らかにつぶやき足らずです。どうやら「」の使い方にまずいところがあったようです。お詫びをしつつ補足しなければなりません。放送されていた高座で立川談志が「現代」について語っていたわけではありません。談志がいろいろな著作や番組で言っている「現代落語」の表現と、太田省吾が言う「現代の表現」が、同じことなのではないかと考えたのです。

 

 立川談志がもっとも現代的とする笑いの表現を「イリュージョン」と呼んでいます。

 

 

   現実には〝かけ離れている〟もの同士をイリュージョンでつないでいく。そのつなぎ方におもしろさを感じる了見が、第三者とぴったり合ったときの嬉しさ。〝何が可笑しいのか〟と聞かれても、具体的には説明ができない。

(立川談志『最後の落語論』より )

 

 

いろいろイリュージョンの例も示していますが、大半は演じているときの様子を見ないとわからないものです。ただ、「イリュージョン以外の何ものでもない」として、次の例があります。

 

 

   「番頭さん、金魚どうしたい」

   「私、食べませんよ」  

                     (同上)

 

 

 談志流に笑いを分解すると道化、ナンセンス、ウィット、ジョーク、馬鹿、ユーモア…、と続いて、自身が落語にぶち込んだ「イリュージョン」となるそうです。わたしは正直に言うと、この談志流の分解を100%は理解できません。ただ、「イリュージョン」はいわゆるジョークよりも言葉の削除が激しく、一方でナンセンスのようにつながりがなくなってしまっているものではないようです。

 わたしはこの「イリュージョン」を、笑いについて考えるときに頭の片隅に置くことはありましたが、笑いでないところで「イリュージョン」を用いた考察をしたことがありませんでした。ところが、前述のテレビでの『芝浜』を観ているときに、「笑い」を求めていない箇所に「イリュージョン」の存在を感じたのです。

(ここからは、『芝浜』をご存知でない方は、一度すべて鑑賞してから確認していってください。)

 

 この『芝浜』は、わたしがテレビで観ていて「イリュージョン」を感じたところは同じように演じられています。

 658あたりから見てください。そして、800からのほんの短い妻のセリフ「ああそう。ふーん…、そうなんだ」のところで、わたしは「おや?」と思いました。わかる、わかる、けれども、古典落語として考えると、この瞬間の言葉があまりにも少ないと感じられるのです。

 そしてわたしはここで太田省吾の『劇の希望』にある「表現の領域」という文章を思い出したのです。

 

 

 チェーホフの『かもめ』の、マルグリット・デュラス訳が発表されたという紹介記事(利光哲夫による)に、次のような訳例が挙げられていた。

  

□チェーホフ

メドヴェージェンコ  あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわけです?

マーシャ  わが人生の喪服なの。あたし、不仕合せなおんなですもの。

□デュラス

メドヴェージェンコ  あなたは、いつも黒い服ですね。

 マーシャ  喪服なの。

 

  これも、削減あるいは忌避の原理のあらわれである。デュラスの訳は、チェーホフの現代訳の試みなのだが、それは、チェーホフの言葉に現代的な意味を付け加えることによってではなく、言葉の削減によって現代のものにしようとされている。現代の表現は、近代の表現よりも〈伝達〉の言葉に対する忌避が、つまり関係意識が強まっているということを、この例はあらわしていないだろうか。

                  (太田省吾『劇の希望』より)

 

 

 過去の名人は談志ほど丁寧に『芝浜』を描いていません。談志は付け加えたのです。たくさんの『芝浜』を観たわけではないので、わたしに足りないところがあったらご意見をいただきたいところなのですが、たとえば桂三木助による妻の告白は唐突に始まるし、古今亭志ん生の場合は「まぁ~、いい大晦日だから」と取って付けたような具合になっています。談志はそこに問題を見出し、丁寧に描きつつも説明しすぎて野暮にならないように、現代的に付け加えた結果が「ああそう。ふーん…、そうなんだ」になったのでしょう。この付け加えられたつなぎの一言は、あきらかに〈伝達〉の言葉を忌避しています。談志の派手な部分はよく語られていますが、こういったところにこそ、それまでの古典落語にはなかった現代的センスが光っているとわたしは思います。

 

追記・ちなみに、この『芝浜』の6:12から始まる除夜の鐘のやりとりなんかは、やはり太田省吾『劇の希望』にある〈ほのめかされるもの〉に書かれてあることを連想します。

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